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看書摘ろく『南満州鉄道旅行案内』その3 民族への興味

2010/10/23 06:58

 

 

22.10.21

●看書摘ろく

『南満州鉄道旅行案内』昭和10年版 その3

 

旅行ガイドとして、各都市ごとの沿革や、産業、観光のポイント、旅館から土産物の紹介までもりこまれているのは当然。

満洲の気候、風土、歴史、文化など総論も充実している。建国のかけごえは

「五族(満・漢・蒙・鮮・日)協和」

だったが、各民族の紹介も、要領がいい。ただし、よく読んでみると、上から目線の表面的観察にとどまること、かのかけ声の実態にも似ているが。

 

P41

民族的興味

 

古くから満洲に住んでゐる人種は満洲人である。然しいま全満洲に圧倒的大多数を占めてゐるのは山東地方から渡来した漢人種である。露西亜人は北満地方に分布し日本人は主として関東州・満鉄付属地に、その他は鉄道沿線に植民している。朝鮮人は東辺、間島に侵入しここより更に満鮮牡丹江河谷方面、国境方面に移住してゐる。斯く多数の人種が混住してゐる為、それ等特色ある衣食住の生活、風俗に接し得られて旅行者の感興を惹くものは頗る多い。

 

古来土着の満洲人は歴史上顕著な活動をしたが、いまは甚しくその数を減じ、著しく漢人化してゐるが尚その伝統を保持するものがある。例へば鳥居式の門、屋根の千木、〔木戈〕式倉庫等民家の特色或は婦人の纏足せざること、頭髪に一把頭、両把頭の類あること等がそれで漢人のそれとは自から異っている。今でも渾河の上流地方、吉林、満洲八旗駐防の地(チチハル其他)等で容易にそれらの風俗に接し得られる。

 

漢人は満洲総人口の9割以上を占め、性質は自己保存の念強く蓄財に長じ、自己の面目を重んじ孜々営々として励み、次第に地歩を築いて行った。更に彼等の家族制度は血縁、地縁団体となって団結心が極めて強い〔注1〕。通じて現世的享楽的で、ひとへに福、禄、寿を願ふといふやうな気風である。家、料理、衣服類等の観察は満洲旅行中随所に遂げられる。支那芝居、支那風呂、婚礼、葬式の行列、正月の爆竹や門神、元宵節、各種店舗の招牌の尽きせぬ興味等々枚挙に遑もない。

 

蒙古人は主として興安省熱河省の山中又は草原沙漠地帯を転住する遊牧の民であるが、鄭家屯、洮南、近くは新京から京大線の前郭旗に、遠くは海拉爾、満洲里あたりの町を旅行すれば蒙古人を見ることができる。紫や黄色の衣服で剽悍な容貌をみると、さすが嘗て欧亜に誇る大帝国を建てた民族であることがうなづける。

 

所謂蒙古包に起居し頗る簡単な生活である。殆ど喇嘛教の信奉者で、随所に壮大な喇嘛廟を建て、定期の廟会には畜産品と日用品とを交換し用を弁ずる。

煙袋、燧石、小刀、茶碗、箸等はいつも携帯し飯食、談話を好み、優柔不断で活気に乏しい。常食的に羊肉、牛乳を愛用するが、その外粟、黍を用ひ、支那から輸入する磚(タン)茶は座談の必需品となってゐる。彼等の転住地方を旅すれば蒙古包を、牛馬羊を放牧せるを、駱駝を牽ける彼等、牛車で移動生活を営みめぐる彼らを多数に見受ける。

 

もとの北満鉄道付属地市街は露西亜人の建てたもので哈爾賓はその代表的なもの、市街は露西亜式で全く異国風景のスラブ民族の風俗に接し得られる。

彼等はロシアの極東政策に伴ひシベリアから入満したもので、日露戦役後北満の鉄道沿線地方に後退したものであるが北鉄譲渡成立後は、これ等露人の数は著しく激減され、尚白系ロシア人の多くは悲惨な生活を営んでゐる。

 

満鉄線、京図、図寧沿線地方の随所に白衣の同朋朝鮮人を見出すことができる。その多くは農業を営み、張政権時代官憲、地主等の不法な圧迫に忍従しながらも水田開発の大業に貢献したが、満洲国成立と共に多幸な将来を持つやうになった。

 

満鉄沿線の町を旅行すれば、満洲の文化建設に努力した日本人の努力の跡をみることができる。日露戦後、幾多外交洗礼を受けつつ我が権益の保持に勤め、近くは建国の大業に参加して、楽土建設の大半の責任を負はされてゐる。満洲国成立後は渡満者陸続相踵ぎ、事変前20万余の人口は既に30万を突破して、全満各地に移住し、新京、奉天の如きは棲むに家なき盛況を見るに至ったのは誠に喜ぶべきことである。

 

以上諸民族のほか興安省にはウラルアルタイ民族に属するソロン、オロチョン、オルト、ダホール、パルガ、ホルチン、ブリヤート、チプチン等の諸族が住み、牡丹江と松花江との合流点三姓附近にはゴルド人が住んでゐる。これ等の諸族は喇嘛教、シャーマン教等を奉じ、放牧、狩猟を業とするものが多く、中には農業を営むものもあり、稀には有識有産のものもある。〔注2

 

〔注1

中国人の「団結心が極めて強い」のだろうか。孫文も「一盤散砂」と言っているのではないのか?

日本と中国では、団結の原理がちがう。

日本人は、田舎人も都会人間も、根っからのムラ人間だが、中国の村にはだいたい、「村境」というものがない。鎮守なんてのも当然ない。

血縁でいえば、父系の「宗族」が、時に非常な力を持つことはあるが、厳密な均分相続が利己的な個人主義につながり、家族という範疇ははなはだあいまいだ。

・・というようなことは、じつは、満鉄調査部「慣行班」が、昭和15-18年に、中国華北農村の実態調査をしてから、初めてわかってきたこと。(中国農村慣行調査』)  (共産主義を信奉して弾圧され、日本を逃れて満鉄にはいり(石堂清倫のように)、現地調査に従事した若い調査員たちが、華北で、現地農民と「運動会」をして悦ばれたりしながら、実証的な成果をあげた。)

日本や西欧にあるような「中間団体」が、基本的には中国にはなく、中国人はあくまでも個別的な二者関係をもとにネットワークをつくるということだ。

 

☆宿題メモ=中国漢人社会における中間団体不在の問題

 

〔注2

各民族別の人口数については、

『リットン報告書』は、

「全人口は約3,000万人と数えられ、そのうち2,800万人はシナ人または同化した満洲人といわれる。朝鮮人80万人、その大部分は朝鮮国境のいわゆる間島地方に固まり、その他のものは広く満洲全体に分散している。モンゴル種族は内モンゴルに接する牧地に居住しているが、数は少ない。満洲におけるロシアは約15万人で、大部分は東清鉄道の沿線地方ねとりわけハルビンに住んでいる。約23万人の日本人は主として南満州鉄道沿線の居留地および関東州の租借地に集中している。満洲における日本人、ロシア人、その他外国人(朝鮮人を除く)40万人を超えない。」

としている。

 

『満洲年鑑 昭和15年版』は、総人口を3,667万人とし、

漢族 2,973万人 81%

満州族 435万人 12%

蒙古族 98万人 3%

朝鮮族 93万人 3%

日本人 42万人 1.2%(そのうち、公務員・自由業は8.3万人)  

としている。

満州族の数は水増しではないのか、何を指標として満州族と判定しているのか?

ほかに、日本軍人約50万人。

終戦時の満洲の総人口を、

44,242,327

と数えている資料も(『満洲記憶と歴史』)

「王道楽土」は、戦乱に苦しむ中国内地に比べれば、とうとうとした人口流入をもたらす魅力はあった。

 

☆宿題メモ=満洲の人口推移、民族構成

 

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看書摘ろく『南満州鉄道旅行案内』その2 満鉄特急

2010/10/21 19:41

 

22.10.21

●看書摘ろく

『南満州鉄道旅行案内』昭和10年版 その2・満鉄特急

 

 

 

 

戦前版の「新幹線」だった、満鉄特急「あじあ」。

『南満州鉄道旅行案内』昭和10年版、グラビアの1ページ。スローシャッターで速度感を強調してみせた、印象派ふうの驀進する「あじあ」のイメージ。

下の見開きも溌剌とした元気が、――“衒気”もろとも、あふれている構成だ。

 

 

次の本文も、勇ましくて颯爽とはしている。

古い本に、濃密に閉じ込められているその時代の空気は、ぼくらの歴史の一部、つまりはぼくらの一部でもある。・・・・と、ひとまず仮に言って見る。

 

-p65

特急「あじあ」の全貌

 

特急「あじあ」の出現 

満洲国の躍進的発展に伴ふ現下の日満新情勢に適応し、一は高速度時代の趨勢に順応せんが為満鉄線大連・新京間に流線型高速度急行列車の出現を見るに至った。名称「あじあ」に相応しい堂々たる威容をもって、この東洋に於ける「陸の王者」は昭和9111日を期して運転を開始された。 

 

今日、衆望を担って新興満洲の血脈を、濃紺色の機関車に軽快なる純白のカラーバンドを施した淡緑色の客車を牽引しつつ、颯爽と馳駆する特急「あじあ」の全貌を窺ふならば、あらゆる点に於て、それは従来の我国鉄道車両の概念を棄てることが必要で、実にこれは近代科学の粋を集めた最高峰として、我国交通界に多大の貢献をなすものであることは勿論、更に朗らかな話は、製作に使用された材料の殆どが国産で、然も全車両の製作費が50万円、これを米国ユニオンパシフィックの3両編成高速度列車の20万弗に比して安価なることも我等の喜びとするところである。

 

「あじあ」のスピード 

現代人の旅行心理は「快速へ、快速へ」と向けられ、交通業者はこれに拍車をかけて「地球上の距離を零に化すべく」必死の努力が続けられているかに見える。かくて世界の交通界は陸に、海に、空に、その快速を競って、まさに20世紀はスピード時代であり、列車のスピードは一国の消長を物語る基準とさへなっている。

 

併し快速力(高速度)を起す原動馬力は、ある限度に達すると、速度の方は増加率の逓減が立証されるに至った。つまり空気の抵抗という難問題に遭遇したのである。

この空気抵抗に対する解決案が流線型(Stream-Line)である。即ち流線型によれば、極度の空気抵抗を除去し、速度を速めると同時に、経費をも節減し得ることとなる。處で、この最新流行の流線型も実は魚や鳥などの「自然」の形態から暗示を受け,空理学的に種々研究された結果、その可能性が証明されるに至り、今日スピード時代の寵児となったのである。

東洋交通界の先駆者として、満鉄では、特急「あじあ」にこの流線型を採用することに依って、従来の交通記録を全く更新するに至った。

 

「あじあ」は最高時速110粁の超スピードを出し、大連・新京間701.4粁を8時間半の拘束で快走し、将来は更にこの時間を縮めよふという素晴らしい予定をもっている。この「あじあ」が如何に高速であるかは、鉄道省が快速を誇る「燕」の東京・神戸間589.5粁を時速68.4粁で走破するのに比し「あじあ」は一躍82.5粁の時速を保持して「燕」より早いこと14.1粁といふ素晴しい数字を示したことでも判る。因に現在の急行「はと」は66.8粁であるから「あじあ」は「はと」よりも時速15.7粁速いことになる。

かくの如く高い平均列車速度を得るためには、巨費を投じて全区間複線となす他、線路を改良し、曲線を大きくしカント(1曲線路で外側のレールを内側より高くする事)を適当にし、又勾配を緩にする等の必要な高走路工作が施されてゐる。

 

尚、大連・新京間701粁を僅々8時間半で快走し得るに至った迄の、満鉄のスピードアップに対するこれまでの献身的な不断の努力の跡を、急行について見れば、明治41年の24時間20分、大正元年の14時間40分、昭和2年の12時間10分に比し全く隔世の感がある。

 

「あじあ」の原動力

高速度特急機関車パシナの構造 バシナ型機関車は、高速度運転及無停車走行距離の増大に適応せんがため、満鉄が多年満洲大陸で得た経験を基礎として自ら設計製作したもので、従来の機関車を全く一蹴し、時代の先端を切った画期的快速車である。

 

本機は線路の状態からして最大能力を有するもので、最高許容速度を130粁毎時として各部の設計をした。全長25.7米、総重量202瓲、働輪1軸上24瓲で、日本最初の機関車の総重量23.5瓲に比し如何に大なるかが判るであろう。働輪の直径2米、全高4.8米、全幅3.2米この雄大な機関車が砂塵を捲いて走る時の風圧を避けるため、怪異な流線型の覆が施されてゐる。汽罐圧力は従来のものより10パーセントを高めて15.5瓩毎平方糎とし細管式を用ひ、過熱温度を上昇し、熱効率を高め燃料の節減が計られている。

 

最大実馬力は2,400で、この容量を作るには多大の重量を要し、線路の重量制限を超過する事となるので、汽罐胴はニッケル鋼板、その他の箇所には軽金属を利用し、出来るだけ重量を軽減し瓲当りの馬力を増加した。その他技術的立場より種々の改善が施されて居り、就中材料及部分品の殆どが国産品で出来上ってゐることは前述の通りである。尚、列車運行上の安全を期するため、先台車には鋳鋼製一枠エコノミ型、従台車は特殊誘導型を使用し、両者相俟って完璧を期してゐる。

 

「あじあ」の客車構造 ()編成

編成順位

機関車

手荷物郵便車

三等車

三等車

食堂車

二等車

展望一等車

 

座席数

 

 

88

88

(36)

68

48

292

(後略)

 

食堂車では、白系ロシア少女が給仕して、異国情緒をくすぐってくれるという仕掛けもあった。

(続く)

 

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看書摘ろく『南満洲鉄道旅行案内』

2010/10/20 16:43

 

22.10.20

●看書摘ろく

『南満州鉄道旅行案内』

 

ブログ9.23に―

「並行線問題が始めて顕在した、19078年の法庫門線計画の事案については、初代の満鉄総裁、後藤新平がこれに懊悩している。鶴見祐輔の『後藤新平伝』も見ておかねば・・・・」

と書いたけれど、同書は原稿用紙20,000枚、

「蓋し其の分量においては、本邦伝記中一二を争う程度の浩瀚」なもの、

とは著者もみとめるところ。これ、いちおう、ぜんぶ読まねば。

というわけで、

満鉄が出した公報的出版物、『南満州鉄道旅行案内』から。

 

 

 

☆大正6(1917)年版

 

写真の右がわ。ページの隅が「アール」になっている。アールヌーボーだろうか。とにかく、満鉄はモダーンで、予算をケチらない。

日露戦争の「戦闘経過地図」を、薄用紙に精密に印刷して、5枚も折り込んでいる。12年たっても日露戦争は、日本人の満洲への関心の最大のものだった。

いっぽう、清朝滅びて6年、鉄道附属地の「近代」をはずれると、満洲の政治経済はいぜんとして混沌とした闇につつまれている。

たとえば、同書の「旅行便覧」p176には、――

 

貨幣 満洲に流通する貨幣は本邦通貨の外横浜正金銀行の兌換金券及び横浜正金銀行の兌換券並びに円銀支那小銀貨、中国銀行券等其種類極めて多く就中其流通の遍きは支那小銀貨、墨西哥、香港、北洋の各弗銀、中国銀行券(弗銀小銀貨とする2種類あり)、東三省官銀号券(小銀貨を本位とす)及露貨等にして此等貨幣は時々の相場に従ひ常に両替価格に変動を来し候に就き其計算方法頗る煩雑に御座候

 

なお同便覧は貨幣の項に続いて、度量衡の魑魅魍魎ぶりを述べているが、省略する。

 

☆昭和10(1935)年版

 

それから18年。この間に五四運動があり、蒋介石の北伐があり、漢口事件、山東問題があり、満洲事変と満洲国の建国があつた。

この昭和10年版には日露戦争の戦闘地図はない。そのかわり大判のカラー地図が折り込まれている(写真は部分)

 

 

満洲各地、日本が、すでに航空路で結ばれているのがわかる。

 

後藤新平が外遊して初めて飛行機に乗ってみたのが、1919年、感想は「シャンプーされるような気分だな」、というのは座席がむきだしだったからだ。

平成の失った20年にくらべれば、この間、なんという急流な時代!

 

技術的近代の進展したことは、中国本土でも同様だった。それが、ナショナリズムをさらに高揚させ、発展する満洲という失地を回復せんとする意欲を刺激するのは自然なことで、後藤新平なら、政策の基礎として認めるべき、「生物学的の原則」とでもいったに違いない。

 

「支那の交通文化は、時代の先端を切って、上海から漢口への600哩を定期の旅客飛行機が往復し、大体長江の水路に沿うてコースを取っている。」

「日進月歩の支那の交通界は、自動車道に、鉄道にと、新しい交通系統を著しく発達させている。」

 

と書いているのは、後藤朝太郎『支那読本』昭和8年。

福田和也の『地ひらく』も、

 

「昭和11年を境として、日本の対中観、特に蒋介石政府への評価は劇的に変りつつあった。イギリスとの連携の下に成し遂げた幣制改革が成功し、経済的にも中央集権が進み、国民党政府の予算、特に軍事予算が、従来のセッコウ財閥からの支援という形態から、税収によって賄われはじめた事、また自動車道路や空路といった交通網の充実などによって、経済を中心とした国力が、急速に充実しつつあるという認識が、経済関係者を中心に広がりだした。」

 

と認めている。

   『南満洲鉄道旅行読本』の項、つづく

 

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看書摘ろく『全文 リットン報告書』―並行線問題

2010/09/23 13:31

 

 

●『全文リットン報告書』ビジネス社版(2006)

 

――並行鉄道問題

 

「日支衝突以前 ( during the period preceding the conflict between China and Japan )は、満洲と、シナのその他の地方との、政治的・経済的な関係は緊密になりつつあった。そうした相互依存関係の増大は、満洲や南京のシナ人指導者に、ロシアや日本の特殊権益の排除を目的とする、ナショナリズム的政策をますます強めさせることに貢献した。」

25年間、満洲における国際政戦は主として鉄道をめぐる戦いだった。」

「これら多くの鉄道問題を全般的に考察すると、問題の多くは技術的な問題で、通常の仲裁や司法手続きによって解決できることは明白だ。」

――並行鉄道問題に対する、リットン調査団のクールな見解の骨子。(“当時の訳文を基本的に守りつつ、一部、表記、表現を現代に合わせて改め”た――ビジネス社。)

 

P101

 

満洲におけるシナ政権の建設的努力

 

19319月の事件(満洲事変)以前、満洲の行政が不完全だったことは事実であるが、同地方の一部においては行政改善の努力が行われ、ことに教育の進歩、都市行政や公共事業の方面で若干の効果が上がっていたことは認められる。

その時期、張作霖元帥および張学良元帥のもとで行われた満洲の経済資源の開発組織のおかげで、シナ人民およびシナの利益が従来よりもはるかに大きくなったことは強調しておく必要がある。

シナ人移民の増加は、満洲とシナのその他の地方との経済的・社会的関係の発展に貢献した。

この時代は、そうした移民以外にも日本資本に関係のないシナ鉄道が建設された。

奉天~海龍鉄道、打通鉄道〔打虎山~通遼〕、チチハル~東山鉄道、呼倫~海倫鉄道だ。また、葫蘆島の築港計画、遼河改修事業、諸河川における航行事業も開始された。

シナ官民の多くはこうした企業に参加し、鉱山業では本渓湖、穆稜、礼賛諾爾および老頭溝炭坑に関係し、その他諸鉱山の開発にもたずさわったが、そうした鉱山の多くは官立「東北鉱業公司」の指揮下で採掘された。

シナ人は黒龍江省の探金事業でも利益をあげた。

森林業に関してシナ人は「鴨緑江採木公司」で日本人と共同の利益を有し、黒江省と吉林省で伐木事業に従事した。

満洲各地に農事試験場が開設され、農業組合や潅漑計画も奨励された。

最後に、シナ人の資本は製粉や織物工業、あるいはハルビンでは豆や油、小麦の製粉事業、繭綱や杵蚕絹〔ともに絹織物〕、木綿や羊毛の紡績、製織工場に投下された。

 

シナの他の地方との貿易

 

満洲とその他の地方との貿易も増大した。そうした貿易は一部、シナの銀行とりわけ満洲の主要都市に支店を設けた「中国銀行」から融資を受けた。

シナ汽船やジャンクはシナ本部と大連、営口および安東の間を往復したが、その運送貨物量はだんだん増え、満洲海運業界においては日本のトン数に次ぎ、第二位を占めるようになつた。

シナの保険業も徐々に増加する趨勢にあり、シナの海関が対満貿易によって得る収入も増加しっつあった。

 

このように日支衝突以前は、満洲とシナのその他の地方との政治的・経済的関係は緊密になりつつあった。そうした相互依存関係を見て、満洲や南京のシナ人指導者たちは、ロシアや日本の特殊権益の排除を目的とするナショナリズム的政策をますます強めるようになった。

 

P126

 

第三節 満洲における日支鉄道問題

 

満洲の国際的政策は主として鉄道政策

 

25年間、満洲における国際政戦は主として鉄道をめぐる戦いだった。純粋に経済上・鉄道運輸上の問題は国策の都合によって無視され、満洲の諸鉄道は経済的発展のために全能力を出し切ったということはできなかった。

われわれ委員会の満洲鉄道問題研究が示すところによれば、満洲においてシナと日本の鉄道建設者や官憲が相互に有益な鉄道計画を達成しようと、協力し合ったことはほとんどない。西部カナダやアルゼンチンでは主として経済的観点から鉄道の拡張が行われてきたが、満洲における鉄道発展の歴史は、主として日支両国間の勢力争いに終始してきた。これまで満洲に建設された重要な鉄道で、シナと日本、あるいは他の利害関係を有する外国間の公文交換をともなわないものはなかった。

 

満鉄は清洲における日本の「特殊使命」を遂行した

 

満洲における鉄道建設は、ロシアが投資し支配下に置いた東清鉄道にはじまる。日露戦争後、満洲南部では日本の管理する組織、つまり満鉄がそれに取って代わり、日支間の対抗を必然化した。

満鉄は名義上は私営会社だが、事実上は日本政府が運営している企業である。その職能は単に鉄道の経営だけではなく、政治的行政の特殊権能をもふくんでいる。会社創立当初から、日本人は同鉄道を純粋に経済的企業として見たことはない。

初代社長だった故・後藤子爵は、満鉄は、満洲における日本の「特殊使命」を果たすべきだという基本原則を定めた。満鉄の鉄道網は発達して能率が高く、しかもよく管理された鉄道企業となり、満洲の経済的発達に大いに頁献するとともに、シナ人に学校、研究所、図書館、農事試験所のような鉄道以外の諸施設の模範も示した。

 

だが満鉄は、政治的性質、日本における政党政治との関連、あるいは財政的利益を期待できないような種類の大プロジェクトのために制限や障害をこうむることになった。満鉄が組織されて以来、その基本政策は、満鉄線に連絡するシナの鉄道建設に対してのみ資本を供給し、そうすることによって満洲内の貨物の大部分を租借地・大連から海運輸出するために直通輸送しようということにあった。

この種の鉄道投資は巨額の支出になったが、その建設が純粋に経済的根拠に照して妥当だったかといえば、疑問とすべき場合もあった。ことに大きな資本の前貸しや貸付条件について見るとき、そうであった。

 

シナ国土に満鉄のような外国管理の施設が存在することは、当然シナ官憲から嫌悪され、条約や協定による権利、あるいは特権に関する問題は日露戦争以来つねに発生した。

とくに1924年、満洲におけるシナ官憲が鉄道発達の重要性を認め、日本の資本から独立して自分たちの鉄道を発達させようとしてからは、この間題はいっそう危機を孕むことになった。(後略)

 

並行線に関する紛争

 

1931918日以降の満洲において、武力に訴えることを正当とする日本側の主張は「条約上の権利」が侵害されたことを理由にして、190511月~12月、北京で開催された「日支会議」において、シナ政府が以下のような約束を履行しなかったことを強調した。

その約束とは

「清国政府は満鉄の利益を保護するため、その鉄道を自国に回収する以前は、満鉄付近にこれと、並行する幹線、あるいは鉄道の利益を損なうおそれのある枝線を建設しないことを承諾する」

というものであった。

 

満洲における、いわゆる「並行線問題」に関する紛争は長いあいだ重要なものだった。

この問題は1907年~8年、日本政府が右の権利を主張して、シナが「英国商会」との契約のもとに新民屯~法庫門鉄道を建設しようとしたのを防止したとき、初めて発生した。

1924年、満洲におけるシナ人が日本の財政的関係から独立した自分たちの鉄道を発達させようとして以来、日本政府はシナ側の打虎山~通遼線、吉林~海龍鉄道の建設に抗議してきた。

もっとも、両鉄道は日本側の抗議にもかかわらず開通した。

 

「条約上の権利」または「秘密会議録」の存在に関する問題

 

われら調査委員が極東に到着する以前、われわれは日本の主張するような約束が現に存在するかどうか大いに疑問だった。並行線をめぐる紛争は長いあいだにわたって重要な問題だったから、委員会は事実に関する情報を得るために特別の苦心を払った。

東京、南京、北京において、あらゆる関係文書を審査した。

 

われわれはいまや、いわゆる「並行線」に関する」190511月~12月の「北京会議」における清国全権の約束は、いずれの正式条約中にも見られないこと、問題の約束は1905124日の北京会議の第11日目の会議録のなかにあることがわかった。

われわれは北京会議録のなかにある記載のほかには約束を記した文書がないことを日本国とシナの参与員に示し、その同意を得た。

 

(管理人の蛇足:「1905明治3812.22 ロシアの利権引継に関する清国との条約、付属協定(東三省における開市・開港場の増加、安東県・奉天間軍用鉄道の日本による経営など)・付属取決(満鉄並行線の建設禁止など)各調印。06.1.31公布」近代日本総合年表2版による。)

 

論点となる真の問題

 

したがって論点となる真の問題は、シナ側が満洲において右の約束に違反して鉄道を建設したと、日本が主張する「条約上の権利」の有無ではなく、また1905年の北京会議録のなかに記載された字句がプロトコル〔議定書〕といえるかどうかにかかわらず、それが正式約定としての効力をもち、その適用において期間や事情の制限がないままシナ側を拘束する言質となりうるかどうかという点にある。

北京会議録のなかの記載字句が国際法の見地からして拘束力があるのかどうか、もし拘束力がある場合それに与えられる妥当な解釈はただひとつなのかどうか、こうした問題の決定はまさに公正な司法裁判所によって判定されるべきである。

会議録のなかの記載字句についてのシナ側と日本側の正式訳文によれば、「並行線」に関する字句が、シナ側全権の意図を宣言し声明したことについては疑いの余地がない。

 

そうした声明を出したことについてはシナ側も否認しなかった。だが論争を通じて表明された意図の性質については、両国間に意見の相違が見られた。

日本は、右に使用された字句は、満鉄の競争線と認められるいかなる鉄道もシナは建設したり建設を許可したりすることはできない、という意味だと主張する。

他方シナ側は、その字句が意味する唯一の意思は満鉄の商業上の効用や価値を不当に侵害するような意図をもって故意に鉄道を建設するようなことはしない、という意味だと主張する。

 

新民屯~法庫門鉄道計画に関する1907年の公文交換に際して、慶親王はシナ政府を代表して日本公使・林男爵にあて――190747日付けの通告中、北京会議において日本全権は、満鉄から何マイルまでの鉄道を「並行線」とするか、それを定義することには同意しなかったが、「日本は満洲開発のため、将来シナがとるであろう措置を妨げない」と宣言したと、述べている。

それゆえシナ政府は、日本には南満洲において鉄道建設を独占する権利があるという主張に対してはつねに否認してきたが、事実上、満鉄の利益を明白かつ不当に害するような鉄道を建設してはならないという義務があることは承認したようである。

シナ側は、「では、何が並行線であるか」という定義を希望したが、その定義はいまだ定められていない。

 

日本政府が1906年~8年にかけて新民屯~法庫門鉄道の建設に反対したとき、日本は「並行線」とは満鉄からほぼ35マイル以内の鉄道だと考えていたような印象があるが、1926年には、シナが計画している鉄道と満鉄線とのあいだの距離は平均70マイル以内になっていると指摘して、これは「競争並行線」にあたるとし、打虎山~通遼鉄道の建設に抗議した両者が十分満足できるような定義を作成することはむずかしそうだ。

 

 

P139

これら多くの鉄道問題を全般的に考察すると、問題の多くは技術的な問題で、通常の仲裁や司法手続きによって解決できることは明白だ。ただし、あるものは国家的政策に深く関係した紛争に由来する、激しい競争によるといえる。

 

並行線問題が始めて顕在した、19078年の法庫門線計画の事案については、初代の満鉄総裁、後藤新平がこれに懊悩している。鶴見祐輔の『後藤新平伝』も見ておかねば・・・・

 

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看書摘ろく『満洲読本』 2 鉄道利権問題

2010/09/22 11:11

 

 

●『満洲読本』 2  鉄道利権問題

 

米国の資本家ハリマンによる満鉄買収計画と、並行鉄道の問題について、本書は以下のように述べる。

拾いものの満洲鉄道地図2点を追加しておこう。

 

P275

 

米国の鉄道業者ハリマンは日本に来って、南満州鉄道の買収運動を試みた。

彼は即ち日本の法律に準拠し、最初日本人の管理に属し、漸次日米平等権となるべき両国シンジケートを組織せんとし、日本政府の承諾を得て、覚書を取換わし帰国の途に就いたが、船が桑港に着するや、日本政府から発せられた破約の電報を手渡された。

 

此れは、媾和大使小村伯が帰朝して、此の覚書をポーツマス条約に違反するものとし、一方25億の巨費と20余万の生霊の代償として得たる満洲の特権を米国に売渡す結果になる事を力説して廟議を顚覆せしめた結果で、米国の満洲進出の第一歩は斯くして先づ失敗に終った。

 

然るに其後に於ける日露両国の満洲に於ける態度は米国の主張する門戸開放機会均等に反する如き政策や経済進出の濃厚に現れると見るや、米国は牽制策として、満州鉄道の中立を提議した。

即ち満洲における日露両国経営鉄道を回収し、更に英・米・独・仏を加え日・露・支の7ケ国の共同管理にすべしといふのであったが、日露両国の強烈な反対に遇って止んだ。

 

然るに米国の満洲進出の野望は、上述の如く再度の挫折を以て息まず、茲に三度法庫門鉄道案を樹て、英国の援助を得て成立せしめんとし、日本の反対に遇い中止したが、直ちに陣容を変更し、錦州から小庫倫、鄭家屯を経て愛琿に達する蜿蜒900余哩の大鉄道即ち錦愛鉄道の米清合弁案を提げ支那政府との間に借款条約を締結した。

此線は我が南満州鉄道及露国の東支鉄道南部線と並行し、両国は脅威を感ずるために我国も極力反対したが及ばず、終ひに出資国として参加の申込をなすの止むなきに至った。

 

然るに露国は頑強に之に反対し、一つには東支線の1駅を横断し、又一つには、露国の人口希薄なる地方に接続するの故を以て排撃し、終ひに不成立に終わらしめた。

 

こうして4度満洲進出に失敗した米国は其後支那の幣制改革及満洲の実業開発の資に充つるためと称し、満洲に於ける日露両国の経済発展を妨げ、特権を奪取するために、英・仏・独の3国を語らひ、4国資本団を発企し、支那政府との間に1000万ポンド借款の調印を終へたが、日露両国は此の借款を以て満洲に於ける各自国の既得権益を無視し、機会均等主義を破って、徒に満洲を混乱状態に陥れるものと見做して反対した。

時恰かも支那は十月革命の勃発に遇ひ、此の借款は立消えとなった。

 

斯く満洲進出計画の破れること前後5回に及び、米国は方式を変更して出直さねばならない。そこでワシントン会議に於ては満洲に於ける米国人の利益の他国と同等たる可き要求をなして居り、又、4国資本団の不結果後、米国内に於ては、欧州戦後列国の疲弊を見越し、単独で対支銀行団を組織して支那内地に於て1200哩に亙る鉄道敷設権を得、大運河借款を予約し、更に貿易及企業上の特権獲得に努力しつつある。

 

 

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看書摘ろく『満洲読本』―昭和2年・大川周明

2010/09/21 10:33

 

看書摘ろく

●『満洲読本』1927(昭和2)年 満鉄発行 東亜経済調査局編

 

『満洲読本』は、満鉄から発行された一般むけのパブリシティ出版。昭和13年まで各年度版がある。以下の摘録は、編集責任者の大川周明自身の筆による部分と思われ、文明史的な、遠大な視野も感じさせる。当時、21カ条要求(1915)以来の軋轢は続いているものの、蒋介石と中共合作による北伐(国民革命)の動乱が、本格的にはまだ東北を震撼せしめてはいないことの、余裕か。

 

p4

欧米諸国は、かくして充分に海外植民地を満喫した今日に於て、新説を提唱して、互に他国の領土を侵す者を人類の仇敵と看做すのである。

 

P6

我国の満洲経営は、豊穣な資源を開発し、富の均分を行って共存共栄主義を土着民との間に保つもので、亜細亜民族大結合の楔子ともなるものである。

 

P3

露西亜人の満洲経営は、和蘭人の東印度に於けると等しく、土人と全然別居し、文化的接触を厳禁したもので、満洲住民は、始めて見る汽車や、欧風の建物や街路やを、恰も不可解な欧州語と同様に、みせもの観覧物か蜃気楼位に眺望するに止まり、敢て近接し出入りし、又は交通の便に供する機会すらも与へられなかった。

 

然るに、露人の後を承けて、満洲の経営に当った日本人は、租借地の秩序恢復後間もなく、此の大洋中の扁舟に等しい狭小な而も自国人の安住地として築かれた新都市を、未練惜しげもなく、支那人に向って逆開放をやって居る。

現に新都市地域の住民100余万中の8割強に当る80余万人という大衆は支那人の占むる処である。支那各地に於て週期的に、勿論極めて真摯、熱烈に、租借地回収運動の示威行進が行はれ、宣伝ビラが頒布されるが、満洲の各新都市に在住し、又は出入して常に此の実情に明るい支那人の耳には、其侭の響きは伝らない。

 

日本人が、支那領土の一部に編入されて居る満洲に進出して以来、茲に20ケ年の歳月は経過した。最初此の地方に、数百万人の邦人を移植し大陸の中原に、新日本の建設を目標とされたもので、素より支那の承認を経て、当然出現すべき日本の人口問題の緩和策として、此の広大にして人口の希薄な満洲の地方が開拓に委せられたのであって、爾後我国は租借地の経営に、無慮十余億円の巨額を投資した。

 

かくして20ケ年の歳月が経過した今日に際会して、吾々は一先ず中間決算の公示を求められる。

 

満洲の大自然に変化はない。山岳は依然、自由の象徴として聳立し、河川は滾々として長流し、湖水は淡く沈んで眠ることに変りはないが、日本人の移殖によって南満州の各地は、大なる変動を招来して居る。

 

満洲の農民は有名な貧窮階級で、農作物の移出等は殆どなく、生活の経常費にも事欠く位であったが、日露戦後大豆、豆油等が、日本商人の手に依って欧州の市場に紹介されて以来、穀物の相場は暴騰し、農民は鼓腹撃壌に甦った。

斯うして満洲の農産物の増収施設は試みられ、年々と効果は現れて行き、労働者は雲集し、商賈は蝟集し、南満州の新都市は、狭苦しい中に混沌の渦を巻いて殷盛を極めたのである。

 

P6

此の混沌喧騒の中に在って社会の秩序は完全に維持され、支那各地の動揺から隔離されて、都市の平安は保たれ、富の蓄積は完全に保護されて、支那巨商の城内を捨てて新都市に移住する者が陸続として後を絶たない。

 

P7

実際満洲に在住する日本人は、過去20ケ年に渉って、創始し施設した百般の業務を、現在に於ては、殆ど支那人に卒業されて終った。此の為に随所に蹉跌を来したのである。

明治初年代から、西欧文化の輸入のために招聘した外人が、現在悉く姿を消したやうに、満洲に於ける日本人の事業や施設の或る部分は下駄や畳の手職に至るまで今直ちに取って代っても支障を生じない迄に、支那人の知識は進歩して来た。

労働力の旺盛な点において、簡易生活に耐へ得る点に於て、日本人は到底支那人の敵ではないが、唯一の誇りであった智能的業務に迄も、浸潤し拮抗して来た今日にあっては、満洲の日本人の生活が脅威され、不況に沈淪するのは余りにも明瞭な成行きである。

 

P10

満洲の日本人は、年々確実に1割内外の増加を示し、10ケ年毎に倍加して来て居る。現在20万人を数える邦人は、今後10ケ年にして40万人に増加し、20ケ年後には80万人となり、更に50ケ年後には、勿論現在の如く、極めて不利な地位に置かれるとしても、内輪に見ても600余万の大衆が、満洲の租借地域を埋めることになる。

 

P10

満洲の日本人に依って建てられた新政府は、日本人の安住地であると同時に、支那人の安全地帯として歓迎されていることは幾度も述べた。而して、共通の理性が及ぼす処、此の方式の都市は、順次全満洲に拡大されなければならない。(中略) 

日本の「絶対的かつ排他的行政権を有す」可かりし、租借地が支那人に向って開放された如く、満蒙75,000方里の全土は、日本人に開放される日の遠くない事は、過去20ケ年間、我国人に依って就された、百般の事績に対する在満土着人の心証に根源を発して、日支協調の上、満蒙の開発に当ることの極めて妥当であり有益な点が、両国民間に年一年と明瞭になって行く傾向に徴して、安心して期待できるものである。

 

p32

 

満洲と言えば、胡沙吹く風に荒涼の野を埋めるとか、荒鷲は暗澹たる積雪の地上を翔るとか、血腥い戦場や紅い夕陽などが殺伐の気勢を添え、馬賊や野蛮人の占有する地域のように吹聴されるかと思えば、一方に於いては、満洲はお伽噺の黄金国ででもあるように思われ、白金の屋根で葺き覆われた王宮があり、河底は宝玉を以て埋り、道の小草に黄金の実は結び、金銀の花弁で装飾された楽園にも喩えられて、ぼろい儲け口の引合には、大抵満洲の話が顔を出してくる。

 

P33

日本人の満洲開発は、歴史の潮の干満に伴う波動の一表現である。結局は支那民衆のための努力という事に帰着することは、多くの先例が証明して居る。

満洲に如何程の文化都市が開拓されても、富の先取を日本人が独占しようとも、多くの特権を得て幾百千の新事業を起そうとも、やがては支那人に恢復されて平静な状態になるであろうことは盲断とは思えない。

 

然るに日本人の施設した地域は、満洲の全域の280分の1にすぎない。今茲に20ヶ年を要した現状の如き文化都市を、全満洲に建設して行くものとすれば、今後5000歳の長年月を要せねばならないが、支那人の進歩状態から見れば、従来に倍加して文化し行くことは明瞭であり、自力が年々と文化事業の上に顕現して来るから、現状で進めば数百年後には、日本人の植付けた文化の如きは痕跡も残さず、消滅するものと思われる。

 

併し乍ら世界の進展は、民族興亡の渦中にあって、其本性を失わずに長流して居るもので、何人と雖も此の不変の鉄則に例外を求めて得られる者はないが、前記の如しとすれば日本人の満洲開発が、前途暗澹を物語るものと早合点する人もあるかも知れないが、吾々は此の不変の潮流の中に、恒久の生命を見出すものである。

即ち、幾百年後に於て、吾々の業績は水泡に帰そうとも、茲に歴史の潮流に押し流されない残存物がある。夫れは即ち満洲に築かれた吾々の墳墓と、満洲に土着した吾々の子孫である。

今一つより永遠性を有し、超越的に久遠の生存を保つ者は、傑れた天才を有する人々の理智が齎す人類福祉のための最高原則の発見である。

 

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看書摘ろく『満蒙行政瑣談』 満蒙独立黒幕の体験3

2010/09/20 08:40

 

看書摘ろく

●『満蒙行政瑣談』金井章次 昭和18年 創元社

 

――満蒙独立黒幕の体験的観察 その3

 

(p276)「面子論」

 

支那を論じ、漢人を談るほどの人で、彼等の「面子」に触れない人は先づ無からう。それほどに、支那では「面子」が喧しく言はれる。

「面子」に似たものを日本で求めれば、武士階級の「面目」、仁侠者仲間の「仁義」などが、稍、これに近いものであらう。

しかし、仔細に検討すれば、「面子」がそのいづれとも相違してをることは明だ。

 

私は「面子」を以て、漢人社会の一つの社会的規範を見たいと息ふ。

但し、それは道徳規範ではない。道徳規範と見るにしては、余りにも、日常の具体的事象に即し過ぎてゐる。

道徳規範には、個人的=人類的=世界的といつた普遍性が強い。

もし、強いて道徳規範に近いものとして説明すれば、礼と義とを一所にした「礼義」に近接したものと認むべきであらう。

 

私は漢人の下層社会に於ける「面子」を知るに好機会に恵まれたことがあつた。

大連郊外のみすぼらしい飲食店であつた。それは苦カや馬車夫以外には来ない、全くの「一膳めしや」であつた。高粱酒を12勺と、汁1椀、それに焼餅若干で、123銭もあれば、立派な昼食が済まされる店であつた。

私が試みに隣の客人に…無論、苦力であつたが…話しかけながら、私の高粱洒を一杯進上した。無論、彼も私に返礼した。

今度は私の持つてゐる煙草を一本進上に及んだ。と見ると苦力君の姿が見えぬ。お可笑しいなと思つたら、外に出掛けて安価な煙草を仕入れて来て、私に返礼するのであつた。

酒と煙草の進上と返礼が、どこまで行つても尽きさうにない。

当時は満洲事変前の事であつたので、盛に日支親善が唱へられてをつた。われわれ両人の應酬は、まさに、日支親善の外交接衝そのままである。

そのうちに私の方から、先方の懐具合もあらうかと思つて程々に切り上げざるを得なくな

つた。

 

彼等は「面子」を立てるためには、時に己が身代を磨り減らしても、「面子」のための「面子」を立ててくる。かういふ光景は日本や西洋では、一寸経験ができない。

「面子」に就いては、自分の「面子」も立てねばならぬが、それにも増して相手の「面子」を尊重せねばならぬ。ここに「面子」の「面子」としての特殊的社会的規範たる一特性が現はれてをると思ふ。

 

漢人との交際では、よく贈物の交換が始まる。殊に現地機関の官吏にでもなれば、身分不相應な品物が送り込まれる。これに一々返礼してをつたのでは、いくら月給を多く貰つても追ひ附くものではない。

さりとてこれを拒絶すれば相手の「面子」を損じたことになる。現地人と好く協調しようと心掛た清廉な官吏諸君の絶体絶命の窮地が展開されてくる。

この場合、相手の「面子」を立てたとして、贈られた程の物を悉く貰つて見給へ、恐らく二三個月後には収賄、貪欲といつた好ましからぬ評判が一時に高くなる。

今度はその反対に悉くの品物を突き返して見給へ、「面子」が潰れたの、好意が汚されたの、イヤさうでないなどと弁解釈明のやり取りで、大概の人は煩に堪へなくなつて終ふ。

贈物一つでそれ程騒ぎにする必要はない。そこは「面子」の国だけあつて、チヤンと要領を得るやうになつてゐる。

相手が特別に昵懇な間柄で、且つ相当の身分ある人なれば別に角張ることもないのである。がさもなくば、贈られた品物を見て、そのうちから簡単な手土産程度と思はれる最少価格の品物だけ一個を選んで貰つて置けば宜い。高慣な品物、例えば古画や骨董品などは相手の好意を厚く感謝して、丁重に断りを言って返せば宜いのだ。結局、送る者の「面子」を立てれば済むのである。

又、漢人の贈物はかくするやうに都合良く揃へてある。品数が単数ではない。少くとも二つ、普通には4つとか8つとかの複数になつてゐる。そのうちから一番廉債な物一品を選べば何んでもない。相手が無理算段をして工面して持参したやうな品物は、こちらが受取らずとも、決して相手の「面子」は潰れてをらぬ許りか相手は却つて内心これを喜んでゐる。

 

支那の政治社会と純官僚社会とは比較的明確に区別され、省公署の幹部階級が政変に依つて変転しても、下僚関係には何の変化もないのが普通である。政治家の連中は政権を廻つて争奪戦をやるが、純官僚社会は之に超越してゐる。

官庁では、上司と下僚の聞に、「面子」に依つて上下の系統組戯が確保されて行く。

支那本来の事務組織では、政治的なものは外にして事務上からする下僚の下剋上などいふ話は余り開かぬ。

それといふのも、上司下僚の間に「面子」に依る秩序維持が確立されてをる為であらうと思ふ。

 

会議の席上、下僚が上司に向つて意見の論争をやるなど云ふことは、先づ支那官僚の社会には絶無と言つて良いであらう。

それに就て参考とすべき事例がある。

某日系の大官が地方に出張した時、現地の重なる官吏を紹待された。

その席上、一通り平素の所見を開陳し、最後に謙遜されて、

「本夕御列席の各位から更に御高見を拝聴し度く、こゝに素餐を張つたところ……云々」と結んだ。

これを通訳先生が翻訳して

「卑見に対し何か御異議御意見があらば、充分に御開陳を望む……」

と訳して終つた。

これを聞いた傍の某氏が潜に私に囁いた。

「金井さん、あの大官は、自ら求めて御自分の面子を潰しにかかるやうなものですネ」

と。

論より証拠、招待を受けた現地系要人は、一同、下を向いたきり鳴りを鎮めて一言隻句を吐かなかつた。

それもその筈である。この日系大官の言葉を、面子論の立場から解釈すれば

「最近、仄かに側聞するところに依れば、諸君のうちには、この我輩の意見に反封するものもあるやに承る。以後左様な不心得者のないやうに切に御留意あり度い」

といふ風にも意訳される。一同が鳴りを鎮めたのは無理もない。

 

下僚は上司の意を迎へて仕事をすれば宜いのだ。それを公会の席上、しかも上司の招宴の席上で、異議や畢見を述べ立てるなどとは、官僚社会の「面子」秩序としては、大凡、想像もつかぬことである。

これを上司が強いて求めたとなれば、善意に解釈して、上司が我々を叱正したことになり、更に、本夕の主人が、態度こそ柔いが、心中、潜に憤懣の思ひであらうと想像して恐縮して終つてをる。

 

大官の紹介状で、就職運動に来る人をつかまへて、「今われわれのところには、定員関係から見て欠員もなければ、又、よし欠員があつても予算がありませんヨ」と、すげなく拒絶するのは、正直と言へば正直、明快と言へば明快な事務振りであるが、それでは「面子」秩序が丸潰れとなる。

大官ともなれば相当に子分が多いので、あちらこちらに周旋せねばならぬ地位に立つ。大方の知合に紹介状を出すのは無理はない。

大官が自筆で手紙を寄せたのであるからこちらも自筆で、一応、大官の意を迎へて返事を書くのが、大官の「面子」を立てたことになる。但し実際にその人を採用するしないは別問題だ。この辺に漢人社会の「面子」の意義が比較的明瞭にされると思ふ。

道徳的規範から言へば一種の虚偽であって、良心が責めてやれるものではない。

さうかと言うて事務的良心その侭で行けば、徒に人の感情を害したり、又何処かで社会秩序を却つて破つたりする。現に、実社会はそれ程に、厳格に合理的には出来上つてをらぬ。

「面子」が道徳規範の「礼義」に近いにしても、道徳規範の如く普遍的な理念性に乏しいと思ふのはこの辺である。

然らば、( 面子は )冠婚葬祭の如き社会の風俗慣習規範かと言へば、それほど、或る特定した社会行事に結合してをるものではない。

更に云へば、これ等の行事が社会の身分格式に依って差異のあるべき事が、「面子」に依つて秩序づけられ維持されてをると見て宜い。

「面子」を冒涜した行為を敢てした故を以て、一定の條文に照合して処罰されるといふ條合のものではない。従つてこれが法規範でないことは、今更述べるまでもない。

 

しかし、こゝに注意しなければならぬことは、中国の如く近代的国家機能の鈍いところでは、法の実効性が乏しいので法たらざる法、道徳ならざる道徳、而かもこれが杜合的に相当強力なる拘束性を持つたものがなければならぬ。

かくの如き社会的規範が要求されるとなれば、「面子」の如きは正にこれに好適の規範性を持つてをると言はねばならぬ。

 

「面子」は「面子」なるが故に確立保持されねばならぬ。

「面子」は自己の「面子」もあるが、それにもまして対者の「面子」が尊重されねばならぬ。

「面子」は社会的身分地位等の階級秩序を維持確立する上に必須とされてをる。

「面子」は生活の社会的円滑が主眼である。

以上の「面子」の性質を考察すると「面子」が一つの杜合規範であり、この社会規範に依つて社会の共同態勢を招致してをることが明瞭である。

 

興味ある研究問題だと思つたのは、「面子」の起源問題である。この間題に気付いたのは、「面子」は漢人社会とのみ思つたらさうでもない。

蒙古人に接触してみてから、彼等にも、名称こそ「面子」と言はないが、確にさう言つたものを持つてをる。彼等が、永い間の漢人社会との接触で感化されたのかと思つたがさうでもない。さう言へば、日本でも、江戸末期の町奴の「仁義」などには、幾分この「面子」に似たニュアンスがある。

民族社会が相当に根強い地盤を形成してこれが法規範を持つ国家として、強力なる強制規範を持たない場合、例へば、国家の政治機能が低下して、法規範の実効性が褪色して来たやうな場合には、風俗慣習規範、並に道徳規範と、法規範との中間的形態として、斯く混沌模糊たる亜型的規範が発生するやうになつたのではないかと思ふ。

 

由来、支那社会の各種文化労作は鋭い純粋分析と、この純粋分析を経由せる綜合統一の再生性とに欠如する傾向が顕著である。

従って物事が雑然として群居してをるが、これが生命ある一つの構成体として把握するに困難な場合が多い。

「面子」の如き類型の明確でない社会規範が発生したことは、支那社会そのもののかかる不鮮明性を表白した一例と認め得るであらう。

又、かゝる亜型的の社会規範が存在することが、換言すれば、法規範、乃至は道徳規範の純粋度を喪失してをる事態を説明するものとも解釈し得る。

社会の生命的発展が鈍重となつた場合には、法や道徳規範の実効性も亦自然に不鮮明となる。その結果、「面子」の如き社会規範の自生となつたのではなからうか。

法規範乃至道徳規範と「面子」とは発生的に見て相互関連性を有し、その根底には社会の文化活動の活発、不活発の問題がよこたはりはしないかと思ふ。

 

「面子」の発生論や、社会規範論を外にして、現実の問題としては、支那大陸で活動する人々が、「面子」を無視して行動するならば、必ず何処かで漢人社会と衝突することは火を睹るよりも明だ。

便宜主義の立場であると非難されるかも知れないが、「面子」を特別な社会規範と見做して、支那社会と接触する場合には、他の諸々なる規範と共に、この「面子」規範の上からも、自己の行動を反省して善処するやうに努力すれば、彼等との無用なる摩擦の大部分が排除されることは確である。

停滞性社会の社会的所産とも見へる「面子」に拘泥してをつたのでは、折角の指導精神が没却すると考へられないことはない。しかし、指導理念を具現化するためには、時に摩擦の起きることは当然であらうが、強いて摩擦を買つて行動をする必要は毛頭無からう。無用な摩擦は極力忌避するのが、民族封策上必要なことではなからうか。

 

(管理人のお断り いっぱんに当ブログでは摘録のさい、お気づきのように、原文にない段落や改行を、適当にほどこしています)

 

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看書摘ろく『満蒙行政瑣談』―満蒙独立黒幕の体験2

2010/09/19 09:01

 

看書摘ろく

●『満蒙行政瑣談』―満蒙独立黒幕の体験 2

 

(p247) 討伐と宣撫―満洲の「運動会」

 

政治中枢地の其市に於ける出来事であった。

突如、有力匪団が、市の東方23(11.5km)にある、飛行場附近を横切って北上する気配が見えた。

無論、何時矛を転じて、某市を襲撃しないとは、誰しも保証出来ぬ。

軍は、これが徹底討伐、捕捉殲滅を企図したのであるが、同時に、官庁側に於いても非常警戒にあたつた。

 

これより先き、市では一般民衆の運動競技会を華々しく開催しようという計画を立て、市内二十数カ所の鎮公所に命じて、運動競技の練習や、予行演習を半月も前からやつて居た。

事変後の民心安定は、単に取締や諭告ばかりでは、到底目的を達するものではない。治安が或る程度恢復した時は、少々早めでも、殊更に演芸をやつたり、運動会を催したりして、人心に明朗性を与えることも必要なことである。

そして他面、この機会を利用して、宣伝宣撫を行ふのである。

 

吾々は斯様な趣旨からして、市の催しを極力声援したのであつたが、折悪しく、この匪襲事件とぶつかつたのである。

運動会を、やるかやらぬかが問題となつた。

 

匪団を目の前に、運動会に浮かれて居ていいか等と、議論は沸騰したのであるが、吾々は極力、これが開催を主張した。その理由は、折角、運動会の準備を整えたから、といふやうな意味ではない。

寧ろ、近づきつつある匪団に対して、間接ではあるが、有効適切な宣伝工作をやらうとするにある。そしてこの積極性が、又、市民の人心安定に反映して来る所を狙つたのである。

 

斯く、市街に接近した匪団が、何条、スパイを多数に潜行せしめずに置こうか。必ずや数十名の密偵を派出して、警備状況や、民心の動向を偵察せしめ、或は逆に、彼らの宣伝工作を実行しようとするに相違ない。それに斯様な大衆的な催し物を挙行すれば、彼等スパイ達は、一度は必ず好奇心にかられて、見物方々立ち寄るであらう。これをあらかじめ特察網を張つて、片端しから逮捕する。

幸ひにして、この網を逃れ得た者は、匪団に帰つてその状況を上司や同輩に物語るであらう。この運動会を、市民が如何に楽しんだか、それにひきかえ、彼等匪団の日夜の苦行が如何に悲惨なものであるか。彼等自身に比較反省せしむる機会を与へれば、居ながらにして、匪団に宣撫宣伝をやる事となり、その結果は、彼らの自潰作用を促進することとなるのだ。

 

当日の運動競技会は、全く現地人本位であつて、賞品などは、豚があり、鶏があり、小麦粉があるといふ具合に、すべて現地人の喜びさうな品を取り揃へた。学校生徒は勿論の事、広く一般市民の参加を勧誘したので婦人連迄出場した。

時々、マイクロホンを通じて宣伝をやる。時事ニュースや解説を出して、共産党攻撃や匪賊撲滅を宣伝する。これには又、漫画などを掲載して、女子供迄、面白く読める様に仕組んだ。

 

強行して開催した市民運動会は、非常な盛会で、会場は、万を以て数へる人々で埋まった。この点になると、支那本土の民衆は全く大した度胸である。この市街の東方二三里の所には、千数百名の匪団が押し寄せておるのであるが、それにも拘はらず、この盛大な運動会の様子といふものは、反面に於て、治安上に於ける皇軍の実力に、絶対の信頼を払つておる証拠と見て差支へあるまい。

 

やがて運動会の終つた頃には、当日の賞品たる豚を、四つ足結へて竿につるし、これを先頭に立てて、ブラスバンドの音も勇しく、市中を行進して帰り行く団体もあつた。

 

会場の内外では、敵側のスパイを二十数名も捕へた。

一方軍の討伐も亦徹底的で、彼等匪団は、飛行場の北方地区にある山麓で、名実共に、捕捉殲滅されて終つた。

以来、有名なこの匪団は、頭目諸共、再び我々の話題とならなかつた。

 

 

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看書摘ろく『満蒙行政瑣談話』―満蒙独立黒幕の体験 1

2010/09/18 20:15

 

看書摘ろく

●『満蒙行政瑣談』金井章次 昭和18年 創元社

 

――満蒙独立黒幕の体験 その1

 

著者の経歴

長野県出身明治19年~昭和42年。東京帝大の医科を卒業。北里研究所員、英国留学、ついで大正11年には国際連盟事務局保健(ジュネーブ)に赴任、この間科学者・行政官としてすぐれた手腕を発揮。同13年、満鉄に招かれ、満鉄衛生研究所(大連)を創設し所長を兼務した。かたわら満洲の民族問題に関心を寄せ、張作霖爆殺後の昭和3年、満州青年連盟顧問、ついで理事長となった。著者の満洲独立「複合民族国家思想は、全満に数千の会員を有する牢乎なる団体の実践的指導理念となったのである。青年連盟が、あらゆる苦難と闘ひつつ関東軍に全面的協力をなして満洲事変の処理に当たつたことは」よく知られている、と本書の巻末に解説者は記載している。満洲事変後、軍の委嘱により遼寧省治安維持会( 「満洲国政府の事実上の前身」とされる )の最高顧問となり、満洲国建国後は奉天( 旧遼寧省 )総務庁長、間島省長、蒙古連合自治政府最高顧問などを歴任し、昭和17年に帰国。著作に「満蒙行政瑣談」。

 

p23 (事変前の苦力)

 

事変前の満洲への山東苦力は年々40万を下らなかった。多い時は100万を数えたと言われた。その原因は、当時山東に張宗相と言うドンキホーテ式の将軍が善政()を布き、一方では旱魃水害の災厄が連続したので、事実上山東移民は死線を彷徨しつつ満洲へ満洲へと辿り着いたのである。

これに反して、日本人はと言へば、当局者が手を代へ品を代へて移民を奨励しても一向に効果があがらず、当分の間在満邦人は212万人を出なかった。

 

山東から満洲へ集つて来るこの苦力群を輸送するのに、第何何共同丸と言ふ十数隻の船舶がそれこそ形容通りの鮨詰めで搬んで来た。プープーデッキは勿論の事、話によると救命ボートの中迄積み込まれて、便所に行き度くもその侭で大連に連れて来られたなど言う話もあつた。

青島から乗船する時に余りに客が多いので、監督が頃合ひを見計つて棒切れで整理をすると、同じ家族連れが二分して離れ離れになって終ったと言う話もあつた。

 

大連に下車したこの連中は胸に宿屋の名前を書いた布をぶら下げて、案内人に導かれて宿屋へ行く。

そして幸いに汽車賃のある連中は特別低廉な汽車賃で北上する。

金の無いのは親子眷族、ぞろぞろと奥地を目指して徒歩で鉄道線路の両側を伝って北上する。

この羊のやうな連中を取り巻いて、年頃の娘を見ると、女買いの連中がうるさく付き纏う。父親と母親が大道の真中で娘を売る、売らぬで口論をする。本当に生き乍らの地獄図絵である。

 

かくして幾多の難関を突破して、日本なら片田舎のお祭りのやうな賑やかさで二本の鉄道に沿いつつ北へ北へと渡って行く。

長い鉄橋に差しかかると形容に絶した悲惨事が突発する。

鉄橋の上を何時汽車が通るか一向に判らぬ彼等は、普通の橋梁の積りで渡って行く。

汽車の姿が見えてから全速力で疾走しても間に合わぬから、幾人もの人々が無惨にも列車に轢かれて墜落する。

橋梁の両側にある村落の人々は毎日悲惨事を無心に見送っている。

 

隣人愛の見地から、何とかこの連中に救済の手を差し延べることが出来なからうかと、私はその手段を案出する為に更に詳細な実情を知らうと視察に出掛けた。或る冬の一日この連中を尾けて、大連から金州に行った事がある。

 

その中の一家族が殊に悲惨な感を私に与へた。一、二歳の幼児を裸のまま布団に巻いて父親が背に負ふてゐる。

「君等は何故汽車に乗らぬか。徒歩で行つても宿するのに金がかからう」と言えば、

「一日一人で二、三銭から四、五銭あれば間に合ひます」と答えた。

成程それなら汽車に乗るより廉い。

満洲の冬、零下拾幾度の寒さに、布団に包まれてゐるとは言へ赤子の膚が丸見えである。私はたまりかねて持つてゐたネルの布を与へた。

母親が厚く礼を述べるので、直にも子供を包むかとみてゐると、何ぞ計らむ、このネルを丁寧に折畳み仕舞ひ込んで了つた。

私が呆然として見送ってゐたら、傍にゐた支那人が私の耳許で囁いた。

「あれはこの次の宿場で売って金に換へますよ。」

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エントリいちらん

2010/09/14 08:49

 

 

 

 

 

22.9.14

石原莞爾資料国防論策―軍人の夢

22.9.13

石原莞爾資料国防論策―軍人の夢

22.9.12

中国の西北角―半古代的中国

22.9.11

わが異端の昭和史―石堂清倫の満洲

22.9.10

満洲脱出―満洲中銀幹部の体験

22.9.9

忘れ得ぬ満洲 その6 協和会のこと

22.9.8

忘れ得ぬ満洲 その5 満洲国の最後

22.9.7

忘れ得ぬ満洲 その4 娘子軍を遣る

22.9.6

忘れ得ぬ満洲 その3溥儀皇帝と建国神廟

22.9.6

忘れ得ぬ満洲 その2 日本人武装移民団

22.9.5

忘れ得ぬ満洲 その1

22.9.4

流れる星は生きている

22.8.31

満洲開拓史―終戦前の現地の状況

22.8.31

満洲開拓史―北辺鎮護と原住民との協和

22.8.31

満洲開拓史―敗戦後の難民生活

22.8.30

満洲開拓史―食物と栄養、屯墾病

22.7.30

近代民衆の記録満洲移民―満洲農業移民方策案

22.7.29

近代民衆の記録満洲移民―大日向村 その2

22.7.28

近代民衆の記録満洲移民―大日向村 その1

22.7.27

満洲開拓史―開拓民チチハルの惨状

22.7.22

満洲読本

22.7.21

満洲の終焉 その4

22.7.17

満洲の終焉 その3

22.7.16

満洲の終焉 その2

22.7.16

満洲の終焉 その1 (高碕達之助)

22.7.14

満洲農村雑話

22.7.12

満洲の土地事情―満洲事情案内

22.6.18

満洲とは何だったのか―サラダ式

22.6.15

石川県満蒙開拓史―馬を追う満人 附・乱世日本誌

22.6.14

後藤朝太郎―支那行脚記

22.6.5

たった独りの引揚げ隊

22.6.2

内村剛介ロングインビュー

22.6.1

石川県満蒙開拓史―ハルビンの暗黒街で

22.5.29

石川県満蒙開拓史―馬と満人の記憶

22.5.27

後藤朝太郎 支那風土記―面子と銃声

22.5.26

高橋由一の大久保利通像

22.5.19

志賀町将兵の記録―満洲国の崩壊

22.5.15

志賀町将兵の記録―満洲国の豊穣

22.5.8

志賀町将兵の記録―馬がかわいくて

22.4.26

志賀町将兵の記録―恩義とごちそう。山西省で

22.4.19

志賀町将兵の記録―満洲の地平線と日本海の水平線

22.2.12

小竹文夫、M先生、南原丸山

21.11.27

鳩山丸山闇将軍

21.11.7

早モズとミンス論

21.1.31

伊藤桂一を読む

21.1.17

丹羽文夫・亀井宏・坂井三郎・折口信夫

 

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