22.10.21
●看書摘ろく
『南満州鉄道旅行案内』昭和10年版 その3
旅行ガイドとして、各都市ごとの沿革や、産業、観光のポイント、旅館から土産物の紹介までもりこまれているのは当然。
満洲の気候、風土、歴史、文化など総論も充実している。建国のかけごえは
「五族(満・漢・蒙・鮮・日)協和」
だったが、各民族の紹介も、要領がいい。ただし、よく読んでみると、上から目線の表面的観察にとどまること、かのかけ声の実態にも似ているが。
P41
民族的興味
古くから満洲に住んでゐる人種は満洲人である。然しいま全満洲に圧倒的大多数を占めてゐるのは山東地方から渡来した漢人種である。露西亜人は北満地方に分布し日本人は主として関東州・満鉄付属地に、その他は鉄道沿線に植民している。朝鮮人は東辺、間島に侵入しここより更に満鮮牡丹江河谷方面、国境方面に移住してゐる。斯く多数の人種が混住してゐる為、それ等特色ある衣食住の生活、風俗に接し得られて旅行者の感興を惹くものは頗る多い。
古来土着の満洲人は歴史上顕著な活動をしたが、いまは甚しくその数を減じ、著しく漢人化してゐるが尚その伝統を保持するものがある。例へば鳥居式の門、屋根の千木、〔木戈〕式倉庫等民家の特色或は婦人の纏足せざること、頭髪に一把頭、両把頭の類あること等がそれで漢人のそれとは自から異っている。今でも渾河の上流地方、吉林、満洲八旗駐防の地(チチハル其他)等で容易にそれらの風俗に接し得られる。
漢人は満洲総人口の9割以上を占め、性質は自己保存の念強く蓄財に長じ、自己の面目を重んじ孜々営々として励み、次第に地歩を築いて行った。更に彼等の家族制度は血縁、地縁団体となって団結心が極めて強い〔注1〕。通じて現世的享楽的で、ひとへに福、禄、寿を願ふといふやうな気風である。家、料理、衣服類等の観察は満洲旅行中随所に遂げられる。支那芝居、支那風呂、婚礼、葬式の行列、正月の爆竹や門神、元宵節、各種店舗の招牌の尽きせぬ興味等々枚挙に遑もない。
蒙古人は主として興安省熱河省の山中又は草原沙漠地帯を転住する遊牧の民であるが、鄭家屯、洮南、近くは新京から京大線の前郭旗に、遠くは海拉爾、満洲里あたりの町を旅行すれば蒙古人を見ることができる。紫や黄色の衣服で剽悍な容貌をみると、さすが嘗て欧亜に誇る大帝国を建てた民族であることがうなづける。
所謂蒙古包に起居し頗る簡単な生活である。殆ど喇嘛教の信奉者で、随所に壮大な喇嘛廟を建て、定期の廟会には畜産品と日用品とを交換し用を弁ずる。
煙袋、燧石、小刀、茶碗、箸等はいつも携帯し飯食、談話を好み、優柔不断で活気に乏しい。常食的に羊肉、牛乳を愛用するが、その外粟、黍を用ひ、支那から輸入する磚(タン)茶は座談の必需品となってゐる。彼等の転住地方を旅すれば蒙古包を、牛馬羊を放牧せるを、駱駝を牽ける彼等、牛車で移動生活を営みめぐる彼らを多数に見受ける。
もとの北満鉄道付属地市街は露西亜人の建てたもので哈爾賓はその代表的なもの、市街は露西亜式で全く異国風景のスラブ民族の風俗に接し得られる。
彼等はロシアの極東政策に伴ひシベリアから入満したもので、日露戦役後北満の鉄道沿線地方に後退したものであるが北鉄譲渡成立後は、これ等露人の数は著しく激減され、尚白系ロシア人の多くは悲惨な生活を営んでゐる。
満鉄線、京図、図寧沿線地方の随所に白衣の同朋朝鮮人を見出すことができる。その多くは農業を営み、張政権時代官憲、地主等の不法な圧迫に忍従しながらも水田開発の大業に貢献したが、満洲国成立と共に多幸な将来を持つやうになった。
満鉄沿線の町を旅行すれば、満洲の文化建設に努力した日本人の努力の跡をみることができる。日露戦後、幾多外交洗礼を受けつつ我が権益の保持に勤め、近くは建国の大業に参加して、楽土建設の大半の責任を負はされてゐる。満洲国成立後は渡満者陸続相踵ぎ、事変前20万余の人口は既に30万を突破して、全満各地に移住し、新京、奉天の如きは棲むに家なき盛況を見るに至ったのは誠に喜ぶべきことである。
以上諸民族のほか興安省にはウラルアルタイ民族に属するソロン、オロチョン、オルト、ダホール、パルガ、ホルチン、ブリヤート、チプチン等の諸族が住み、牡丹江と松花江との合流点三姓附近にはゴルド人が住んでゐる。これ等の諸族は喇嘛教、シャーマン教等を奉じ、放牧、狩猟を業とするものが多く、中には農業を営むものもあり、稀には有識有産のものもある。〔注2〕
〔注1〕
中国人の「団結心が極めて強い」のだろうか。孫文も「一盤散砂」と言っているのではないのか?
日本と中国では、団結の原理がちがう。
日本人は、田舎人も都会人間も、根っからのムラ人間だが、中国の村にはだいたい、「村境」というものがない。鎮守なんてのも当然ない。
血縁でいえば、父系の「宗族」が、時に非常な力を持つことはあるが、厳密な均分相続が利己的な個人主義につながり、家族という範疇ははなはだあいまいだ。
・・というようなことは、じつは、満鉄調査部「慣行班」が、昭和15-18年に、中国華北農村の実態調査をしてから、初めてわかってきたこと。(『中国農村慣行調査』)
日本や西欧にあるような「中間団体」が、基本的には中国にはなく、中国人はあくまでも個別的な二者関係をもとにネットワークをつくるということだ。
☆宿題メモ=中国漢人社会における中間団体不在の問題
〔注2〕
各民族別の人口数については、
『リットン報告書』は、
「全人口は約3,000万人と数えられ、そのうち2,800万人はシナ人または同化した満洲人といわれる。朝鮮人は80万人、その大部分は朝鮮国境のいわゆる間島地方に固まり、その他のものは広く満洲全体に分散している。モンゴル種族は内モンゴルに接する牧地に居住しているが、数は少ない。満洲におけるロシア人は約15万人で、大部分は東清鉄道の沿線地方ねとりわけハルビンに住んでいる。約23万人の日本人は主として南満州鉄道沿線の居留地および関東州の租借地に集中している。満洲における日本人、ロシア人、その他外国人(朝鮮人を除く)は40万人を超えない。」
としている。
『満洲年鑑 昭和15年版』は、総人口を3,667万人とし、
漢族 2,973万人 81%
満州族 435万人 12%
蒙古族 98万人 3%
朝鮮族 93万人 3%
日本人 42万人 1.2%(そのうち、公務員・自由業は8.3万人)
としている。
満州族の数は水増しではないのか、何を指標として満州族と判定しているのか?
ほかに、日本軍人約50万人。
終戦時の満洲の総人口を、
44,242,327人
と数えている資料も(『満洲記憶と歴史』)。
「王道楽土」は、戦乱に苦しむ中国内地に比べれば、とうとうとした人口流入をもたらす魅力はあった。
☆宿題メモ=満洲の人口推移、民族構成




